●夏休みの読書2014年08月19日

 片山恒夫先生のセミナーに出席して以来、歯周病は“科学の知”に基づく考え方だけでは治せないのではないかと考えてきました.

 現在、歯周炎は多因子性疾患であると考えられており、細菌が原因の一つであることは分っていますが、そのほかの原因は良く分かっていません.
 したがって『原因はこれであるから、こうすれば治る』という科学的思考に基づいた“特定病因説”による治療には限界があるわけです.

 歯周炎に限らず、一般医科でも慢性疾患や精神疾患はどうも“科学の知”だけのアプローチでは“治す”ことができないことが多いようです.

 そんなことをしばらく考えていたので、この夏休みは“科学の知”を補完する“臨床の知”や”神話の知”について勉強してみようと、河合隼雄先生の本に没頭していました.

 「ユング心理学入門」「心理療法序説」の再読からはじめて、「コンプレックス」「無意識の構造」などを精読して、“自我”や“自己”、“コンプレックス”、“影”、“アニマ・アニムス”などの概念を勉強しました.その後、「書物との対話」や「昔話の深層」、「中空構造日本の深層」を読みましたが、とても興味深く、河合ワールドにどっぷりつかっていました.


  河合先生の本に何度も書名の出てくる本があります.ヘルマン・ヘッセの「デミアン」です.デミアンはユング心理学を知ったうえで読むとヘッセの魂の遍歴が分かり、さらにユング心理学もなんとなく分かったような気になってしまいます.


アンデルセン童話「影法師」の挿絵

 

 

 

 ところが、改めてユング心理学を自分の頭できちんと整理しようとしてみると、「影とコンプレックスはどのように違うのだろう」、「影と無意識の関係はどうなっているのだろう」、など判然としないことが噴出してきます.コンプレックスや無意識などユング心理学の用語に関してはある程度知識を得たのかもしれませんが、その全体像を理解したとはとても言えないようです.
 そのことを指摘する一文を「影の現象学」で見つけました.
 そこには、『“影”のみらず“元型”は個人にとってどのように見いだされ、どのように体験されるかが大切なことであり、厳密に定義することができない、知的に議論することは意味がない』ということが書いてありました.
 そして、『“影”は個人に体験されることとしてはまず無意識全体として体験されると言わねばならない』とも.

 私の心の中をさぐり、私自身を知るには、まず影を体験し、さらに分化、深化させせていく必要があるということになります.しかし、その旅は進めば進むほど困難で多くの危険が待ち受けているらしいのですが、そのような深い理解は体験してみなければわからないということになるのでしょう.




●デミアンとノヴァアリス2014年08月29日

  「デミアン」はユング心理学とともに当時のドイツ文学の知識もあるとさらにわかりやすくなります.
 たとえば、“運命と心情は、同一の概念の名である”という箴言です.
 この言葉はジンクレエルがベアトリイチェの肖像画として描き始めた画の下に書かれたものですが、一読しただけでは何のことを言っているのかよくわかりません.

  ジンクレエルの描いた肖像画は彼の内界を映し出しています.
 “ベアトリイチェ”を描こうとして絵筆を取ったはずの肖像画は『神像か神聖な仮面』のようになり、次第に『デミアンの顔』になり、最後に『ぼく自身なのだ』という感じがわいてきます.そして『それはボクの内面、ぼくの運命、またはぼくの魔神だった.』と考えるようになります.

  『その幾週かのあいだに、ぼくは、それまでに読んだどんなものよりも、深い感銘をうけたものを読みはじめた.後年になっても、ぼくはめったに、書物というものをこんなふうに味わったことは二度となかった.~あればニーチェぐらいのものだった.それはノヴァアリスの一巻で、手紙や箴言がはいっていた.その金言のひとつが、そのときふとぼくの頭に浮かんだ.ぼくはそれを、ペンで肖像画の下に書いた.~“運命と心情は、同一の概念の名である”それがいまぼくにのみこめたのである』とあります.
『青い花』(あおいはな)はノヴァアリスの未完の小説.詩人ハインリヒが夢の中で見た青い花に恋い焦がれ、その面影を求めて各地を遍歴し、その途上で様々な人に会って成長していく様を多くの詩を織り込みつつ描いている.
 ノヴァアリスは、“夜の賛歌”や“青い花”を書いた、18世紀後半、ドイツロマン主義の詩人です.
 ノヴァアリスの青い花に、『貴方の花園はこの世界です.この花の咲いている子供たちの母たちは廃墟です.花やかな生々とした創造されたものはその養分を過去の時代の廃墟から取っています。 然し, 子供たちが栄えることが出来るためには、母は死ななければなりませんでした.』という表現があります.
 子どもが母親から自立するには内的な母親像を消し去り、新たな自我を作り上げる必要があります.このことはデミアンに書かれている卵と鳥の関係、破壊と創造の概念と同じ意味合いと考えられます.
 人間の自我は安定した状態にとどまることなく、その安定性を崩してさえ、高次の統合性へと志向します.人間の内面心情の変化、自己を目指す自我の成長はその人の人生、運命に他なりません.“運命と心情とは同一概念の名である”ということはこのことを意味してるのだと考えられます.

 “運命と心情は、同一の概念の名である”の原文は "Schicksal und Gemüt sind Namen eines Begriffs"で、心情と訳された単語は“Gemüt”です.“Gemüt”を辞書で引くと“心情”という訳が一般的なようですが、”魂”や“心”という訳もあるようです.私には自我の心持である“心情”より意識、無意識の心持全体を代表する“魂”あるいは単純に“心”とした方がこの場合の訳としてはぴったりするような感じがします.

 ちなみに、ジンクレエルが味わって書物を読んだことのあるというもうひとり、ニーチェは「神は死んだ」という言葉で知られるようにキリスト教に対して否定的な態度をとったことで知られています.このことはユングが注目したキリスト教の異端であるグノーシス主義やアブラクサスと“反正統キリスト教”ということで共通します.
 ヘッセもユングもニーチェもキリスト教牧師の家に育ったので、キリスト教は打ち破らなければならない既存の規範として、彼らの前に大きく立ちはだかっていたことは想像にかたくありません.


参考文献:追憶と過去(中野久一)

http://www.asahi-net.or.jp/~pi5a-kns/