●今年は何を読みますか?2018年01月02日


 片山セミナーを受講して以来、歯科臨床は削る、抜く、かぶせる、詰めるという歯科的介入だけでは満足する結果を得られないということを実感してきました.

 片山先生も口をすっぱくして、歯科だけの勉強だけでは足りない、他方面の読書をしなさいと仰っていました.

 ここ十数年は、中村雄二郎先生の「臨床の知とは何か」と河合隼雄先生の著作群に魅力を感じ、難しいながらもずっと読み進めています.

  
 昨年は臨床の知の対極にある科学の知を知るために、西欧人の考え方、科学の誕生に密接な関係があるルネッサンスを知るために、塩野七生さんの『ルネッサンスとは何であったのか』を読みました.
 しかし、ルネッサンスのことが多少なりとも分かると、どうしてもローマのことを知らなければ、西欧人のものの考え方は理解できないと思うようになり、『ローマ人の物語』に没頭し始めました.

 ローマ人の物語は何巻もあるので、近くのブックオフで108円のものを探していましたが、梅原猛さんの「葬られた王朝-古代出雲の謎をとく」が目に留まって、何となく購入したのですが、これが猛烈に面白くて、古代日本に夢中になってしまいました.

 
 神話と歴史が交差する混沌とした日本の古代史はいかような解釈も成り立ち、歴史的観点もさることながら、日本人の考え方、日本人の心も気になってきます.

 そこで、「神話と日本人の心」や「昔話と日本人の心」など河合先生の著作に戻ってきて新年を迎えたというのが、現状です.

 今年は中村先生と河合先生の本を基盤に、ローマ時代と日本の古代についてもう少し勉強してみようと考えています.
 それはおそらく臨床の知や深層心理学に関する理解を深めてくれるのではないかと思います.
 それ以前に、それらの書籍は読んでいてワクワクする面白さがあるのが魅力です.
関連項目:



●デミアンとノヴァアリス2014年08月29日

  「デミアン」はユング心理学とともに当時のドイツ文学の知識もあるとさらにわかりやすくなります.
 たとえば、“運命と心情は、同一の概念の名である”という箴言です.
 この言葉はジンクレエルがベアトリイチェの肖像画として描き始めた画の下に書かれたものですが、一読しただけでは何のことを言っているのかよくわかりません.

  ジンクレエルの描いた肖像画は彼の内界を映し出しています.
 “ベアトリイチェ”を描こうとして絵筆を取ったはずの肖像画は『神像か神聖な仮面』のようになり、次第に『デミアンの顔』になり、最後に『ぼく自身なのだ』という感じがわいてきます.そして『それはボクの内面、ぼくの運命、またはぼくの魔神だった.』と考えるようになります.

  『その幾週かのあいだに、ぼくは、それまでに読んだどんなものよりも、深い感銘をうけたものを読みはじめた.後年になっても、ぼくはめったに、書物というものをこんなふうに味わったことは二度となかった.~あればニーチェぐらいのものだった.それはノヴァアリスの一巻で、手紙や箴言がはいっていた.その金言のひとつが、そのときふとぼくの頭に浮かんだ.ぼくはそれを、ペンで肖像画の下に書いた.~“運命と心情は、同一の概念の名である”それがいまぼくにのみこめたのである』とあります.
『青い花』(あおいはな)はノヴァアリスの未完の小説.詩人ハインリヒが夢の中で見た青い花に恋い焦がれ、その面影を求めて各地を遍歴し、その途上で様々な人に会って成長していく様を多くの詩を織り込みつつ描いている.
 ノヴァアリスは、“夜の賛歌”や“青い花”を書いた、18世紀後半、ドイツロマン主義の詩人です.
 ノヴァアリスの青い花に、『貴方の花園はこの世界です.この花の咲いている子供たちの母たちは廃墟です.花やかな生々とした創造されたものはその養分を過去の時代の廃墟から取っています。 然し, 子供たちが栄えることが出来るためには、母は死ななければなりませんでした.』という表現があります.
 子どもが母親から自立するには内的な母親像を消し去り、新たな自我を作り上げる必要があります.このことはデミアンに書かれている卵と鳥の関係、破壊と創造の概念と同じ意味合いと考えられます.
 人間の自我は安定した状態にとどまることなく、その安定性を崩してさえ、高次の統合性へと志向します.人間の内面心情の変化、自己を目指す自我の成長はその人の人生、運命に他なりません.“運命と心情とは同一概念の名である”ということはこのことを意味してるのだと考えられます.

 “運命と心情は、同一の概念の名である”の原文は "Schicksal und Gemüt sind Namen eines Begriffs"で、心情と訳された単語は“Gemüt”です.“Gemüt”を辞書で引くと“心情”という訳が一般的なようですが、”魂”や“心”という訳もあるようです.私には自我の心持である“心情”より意識、無意識の心持全体を代表する“魂”あるいは単純に“心”とした方がこの場合の訳としてはぴったりするような感じがします.

 ちなみに、ジンクレエルが味わって書物を読んだことのあるというもうひとり、ニーチェは「神は死んだ」という言葉で知られるようにキリスト教に対して否定的な態度をとったことで知られています.このことはユングが注目したキリスト教の異端であるグノーシス主義やアブラクサスと“反正統キリスト教”ということで共通します.
 ヘッセもユングもニーチェもキリスト教牧師の家に育ったので、キリスト教は打ち破らなければならない既存の規範として、彼らの前に大きく立ちはだかっていたことは想像にかたくありません.


参考文献:追憶と過去(中野久一)

●夏休みの読書2014年08月19日

 片山恒夫先生のセミナーに出席して以来、歯周病は“科学の知”に基づく考え方だけでは治せないのではないかと考えてきました.

 現在、歯周炎は多因子性疾患であると考えられており、細菌が原因の一つであることは分っていますが、そのほかの原因は良く分かっていません.
 したがって『原因はこれであるから、こうすれば治る』という科学的思考に基づいた“特定病因説”による治療には限界があるわけです.

 歯周炎に限らず、一般医科でも慢性疾患や精神疾患はどうも“科学の知”だけのアプローチでは“治す”ことができないことが多いようです.

 そんなことをしばらく考えていたので、この夏休みは“科学の知”を補完する“臨床の知”や”神話の知”について勉強してみようと、河合隼雄先生の本に没頭していました.

 「ユング心理学入門」「心理療法序説」の再読からはじめて、「コンプレックス」「無意識の構造」などを精読して、“自我”や“自己”、“コンプレックス”、“影”、“アニマ・アニムス”などの概念を勉強しました.その後、「書物との対話」や「昔話の深層」、「中空構造日本の深層」を読みましたが、とても興味深く、河合ワールドにどっぷりつかっていました.


  河合先生の本に何度も書名の出てくる本があります.ヘルマン・ヘッセの「デミアン」です.デミアンはユング心理学を知ったうえで読むとヘッセの魂の遍歴が分かり、さらにユング心理学もなんとなく分かったような気になってしまいます.


アンデルセン童話「影法師」の挿絵

 

 

 

 ところが、改めてユング心理学を自分の頭できちんと整理しようとしてみると、「影とコンプレックスはどのように違うのだろう」、「影と無意識の関係はどうなっているのだろう」、など判然としないことが噴出してきます.コンプレックスや無意識などユング心理学の用語に関してはある程度知識を得たのかもしれませんが、その全体像を理解したとはとても言えないようです.
 そのことを指摘する一文を「影の現象学」で見つけました.
 そこには、『“影”のみらず“元型”は個人にとってどのように見いだされ、どのように体験されるかが大切なことであり、厳密に定義することができない、知的に議論することは意味がない』ということが書いてありました.
 そして、『“影”は個人に体験されることとしてはまず無意識全体として体験されると言わねばならない』とも.

 私の心の中をさぐり、私自身を知るには、まず影を体験し、さらに分化、深化させせていく必要があるということになります.しかし、その旅は進めば進むほど困難で多くの危険が待ち受けているらしいのですが、そのような深い理解は体験してみなければわからないということになるのでしょう.




教養の力(斎藤兆史)2014年02月16日

教養の力-東大駒場で学ぶこと
 教養には3つの側面があると「教養の力」の著者、斎藤兆史さんはいいます.
 良質な「学問」や「知識」としての側面、「何かを「身につける」あるいは「修得する」という側面、学問や知識を身につけることによって備わる「心の豊かさ」「理解力」「品格」という側面の三つです.
 これを食事に例えてみると、料理や果物(学問や知識)を食べて、それを消化吸収(修得する)して、健康な体(心の豊かさや品格)をつくるということにでもなるでしょうか.
 ジャンクフードやお菓子ばかりを食べても、消化吸収できないものを食べても健康な体をつくることはできません.同様に「心の豊かさ」や「品格」を創るには、有益な学問や知識を的確に選択し、自らの血となり肉となるようにする必要があるわけです.そのときに必要なものとして「知的技術」「バランス感覚(センスオブプロモーション)」「善」の三つを斎藤さんはあげています.
 この本には四書五経は西欧文化が入ってくる前の「教養書」であったとしています.しかし、読んでいて、江戸以前の日本の文化人には「教養」という語句はあまり似つかわしくないような感じがしてなりませんでした.この本でも教養ある日本人として名前の挙がっているのは、明治期以降の人ばかりです.
 なぜだろうとと思って調べてみると、新渡戸稲造が校長として赴任したころとその後の一高の文化的雰囲気がこのことに大いに関係しているのではないかということがわかりました.
 新渡戸の着任以前の一高は「東洋豪傑気取りの」「軍国主義的影響の濃い」校風が主流を占めていましたが、そういった雰囲気に反する気運も学生のあいだに芽生えつつありました.そして徐々に進歩的青年が主流派となっていきます.新渡戸は典型的な「修養主義者」で、学生たちに「性格=人格の修養」を説き、後の教養主義=西欧崇拝主義という教養の性格をかたちづけることなったと、筒井清忠さんはその著書『日本型「教養」の運命-歴史社会学的考察』岩波書店で説明しています.
 教養という言葉が明治になって、修養という概念から生まれものであり、「教養主義=西欧崇拝主義」ということを受け入れれば、江戸時代以前の日本の文化人、例えば四書五経に造詣の深かった新井白石や吉田松陰の叔父の玉木文之進に教養という言葉が似つかわしくないことの合点がいきます.
 そして、辞書的な意味でも日本の辞書の説明より、「教養=リベラルアーツ(liberal arts)]としたBritanica Concise Encyclopediaの定義の方がよっぽど分かりやすく感じるのも納得できます.
 さらに本の帯に書いてある、東大になぜ「教養」学部が残ったのか?ということも・・・・・・

精読1996年12月15日

 先週読んだ本は”ジョン・トッド”の「自分を鍛える」(原題は何だろう、ざっと見渡しても見当たらない)。本の読み方で、入念に読むことと、読んだことを人に説明することを勧めている。


  「正しく、速く、美しく」という標語が小学校の時の教室に貼ってあったような気がするが、今までの人生「速い」ということにあまりにも価値を置きすぎてきたように思う。
 小さい頃から速さを競い、速いを良しとして育ってきたと思う。そして「速さ」に重きを置いたなれの果てが現在の自分で、理解の難しいこと意味の解らないところなどは、解ったふりをして読み飛ばしてしまう癖がついてしまっている。

 人から何々という本を読んだ?と聞かれれば読んだと答えるのだが、実際はその本の内容を理解していないのが現実。とくに読んでおくべき重要な本、それらは難解な場合がほとんどなので、その傾向が強くなる。

 結局、本を全然読んだことにはなっていないわけで、そんなことを長年やってきたのだと思うと、愚かしさもここに極まれりだ。これも「ええかっこしい」「見栄」のなせる業だろう。その見栄も自分に張っているわけなので、それに気付くとちょっと唖然としてしまう。

  これからは、自分に嘘をつかず、解らないことは解らないと素直に認めて、入念に本を読むことにしよう。復習しながら読み進め、その内容を自分の言葉で人に話せるくらいまで理解を深めよう。
 でも、人の読んだ本の話なんて誰か聞いてくれるんだろうか。
 せいぜいカミさんくらいだが、彼女がいつもボクの読んだ本に興味を持ってくれるわけではないしなぁ。せいぜい読書ノートか日誌に書き留めましょうか。

http://www.asahi-net.or.jp/~pi5a-kns/