いのちをいただく-みいちゃんがお肉になる日2014年10月01日


 

 「いのちをいただく-みいちゃんがお肉になる日」という絵本を患者さんから贈っていただきました.

 食肉センターに勤めて、牛の命を解く(屠殺する)ことを仕事にしていた坂本義喜さんの講演に感銘を受けた助産師の内田美智子さんがその話を本にしたものを、漫画家の魚戸おさむさんが紙芝居にして、さらに絵本としたという、ちょっと長い前置きがある本です.

 食肉解体の仕事を「イヤだな」と思っていた坂本さんが、みいちゃんと出会うことによってその仕事を尊いと思えるようになったというお話で、魚戸おさむさんの絵が、ほんわりと暖かな雰囲気をかもしだし、このお話をやわらく優しく上質なものにしています.

 動物を殺戮したいと思う人はあまりいません.しかし、それが自分の職業となれば、そうも言っていられません.坂本さんは心の中の罪悪感を押し殺し、職場に向かう毎日でした.
  「動物を殺生したくない」という思い、「でも、仕事だ、自分も食べていかなくてはならない」という相反する思いの中で坂本さんの心は葛藤を続けています.
 これは、ユング的にいえば、自我の安定が脅かされている状態です.
 うつうつとして、心は晴れません.

 そんなモヤモヤした思いを抱えていた坂本さんは、小学校3年生の息子しのぶくんの授業参観に出かけました.
 父親の仕事をあまり誇らしく思っていなかったしのぶくんは、お父さんは普通のお肉屋さんだといいます.しかし、父親の本当の職業を知っている先生に、嘘をついてはいけない、食肉解体はとても大切な仕事だと諭され、父親の仕事の大切さを理解します.

 ある日、坂本さんの目の前に一匹の牛と女の子が現れます
 「みいちゃん、ごめんねぇ」
 一緒に育ってきた牛のみいちゃんとの別れを悲しむ女の子の姿に坂本さんの気持ちが揺れ動きます.
 「この仕事をやめたい、もうできん、仕事は休んでしまおうか」
悩みに悩んでいる坂本さんの気持ちを察したしのぶくんは言います.
 「おとうさん、きょうはいかないけんよ!」
 坂本さんは、その日の仕事を休んでしまえば、みいちゃんと関わらずに済みます.
 しかし、しのぶくんはそれを許しません.
 「いかないけんよ」という言葉はしのぶくんの言葉であると同時に、『自我の安定した状態を突き崩してまで、高次の統合性を要求している』坂本さん自身の心の声でもあるのです.

 坂本さんは決断を迫られます.
 みいちゃんの目に光るものがあります.
 「大丈夫です.坂本さんの気持ちは分かっていますよ.あなたのためにいのちを捧げます」と言っているかのようです.
 坂本さんはみいちゃんを解きます.このとき坂本さんの旧い自我は消え去り、新しい自分が生まれます.
 「殺生をしてはいけない」、しかし「食べなければ生きていけない」という葛藤から文字通り「解か」れた新しい坂本さんの誕生です.

 私たちが口にするものは命あるものです.生きものの生を犠牲にしてそのいのちをいただいて成長していきます.
 感謝の気持ちを持っていただきたいと思います.


 魚戸おさむさんとゆかいななかまたちのみなさん、坂本義喜さん、内田美智子さん、素晴らしい絵本を有難うございました.


「カインの末裔」と「デミアン」2014年09月10日

 
 


 有島武郎は1917年に発表した「カインの末裔」で注目を集め、作家としての地位を築きました.

 「カインの末裔」の主人公、広岡仁右衛門はある年の秋の終りに、何処からともなくK村に現れます.そして、松川牧場の小作人となり、暴虐無人にふるまいます.隣家の妻と密通し、気に入らないことがあれば、おとなであろうが子供であろうが男女の見さかいもなく殴りつけ、賭博におぼれ、農場の掟をやぶり、燕麦の横流しをし、さらにわが子を亡くしてからは手がつけられないほど凶暴になっていきます.
 やがて、小作人集団からはみ出してしまった仁右衛門は、次の年の冬には松川農場にいることができなくなり、再びあてどもない旅に出ます.

 仁右衛門がその血を受け継ぐカインとは旧約聖書創世記4に書かれている“カインとアベル”のカインです.カインはアダムとエバの子で、捧げものが神にかえりみられなかったことで、弟アベルを殺してしまい、この罪によりエデンの東にあるノドの地に追放されてしまいます.
 さすらい者となり、罪の重さに耐えかねたカインは、「出会う人はだれであろうと私を殺すだろう」と恐れおののきます.そこで、主たる神は、出会う者がだれもカインを撃つことのないようにしるしをつけてやります.
 神はなぜ殺人という罪を犯したカインにしるしを与え保護したのでしょうか.
 このことは、一般的には神の慈悲深さを表すものと考えられているようです.しかし、ヘッセの小説「デミアン」の主人公ジンクレエルは友人のマックス・デミアンから別の考え方を教わります.
 『カインは才智と勇気と節操をもった人だと』という解釈です.

 『けんかで弟をなぐり殺すなんて、たしかに実際あることだし、そいつがあとでこわくなって、へこたれてしまうことも、ありうることさ.しかし、そいつがその臆病のごほうびに、とくに勲章(しるし)をさずけられて、しかもその勲章(しるし)がその男を保護したうえ、ほかのみんなをこわがらせる、というのは、なんといってもずいぶん妙な話だよ』と言って、次のように続けます.

 『しるしというのは額に消印のようなものがついていたわけではなく、才智と勇気と節操を持っている人たちは、ほかの人たちから見ると、視線の中に非常に気味悪いものをもっているので、そのことをしるしと言ったのだ』
 したがって、デミアンに言わせればカインが気高い人で、アベルは臆病ものということになります.

 あるとき、ジンクレエルは父親に『カインをアベルよりいいと言いきる人がずいぶんあるが、このことはどう考えたらいいのか、』と聞きました.
 父親は驚いて、そのことは原始キリスト教時代にも現われて、いろいろな宗派で教えられたもので、そのひとつは「カイン派」と名のっていた.この気違いじみた教義は、われわれの信仰を破壊しようとする、悪魔のこころみにほかならないので、そのような考え方をするのはよせ、と真剣にジンクレエルをいましめます.

 ジンクレエルの父親が言った「カイン派」というのはグノーシス主義の一つです.
 グノーシス主義はキリスト教の異端の中でも、正統キリスト教にとってもっとも手ごわかった相手です.
 グノーシス主義の要点は〈善なる神〉と〈悪しき造物主〉という神について明確な二元論をたて、前者には純粋さと人々を救う慈悲心を、後者には非合理的な力とエネルギーを割り当て、両者の役割分担を重視していることにあります.
 そして、善と悪が互いに拮抗しながら一体化して世界を動かしていくという考え方をするところに大きな特徴があります.

 だれでも心の中には清く正しく敬虔で神の祝福を受けるアベルとともに、神に反逆する罪深いカインが存在しています.そして、そのカインのもつ非合理的な力とエネルギーが低い次元で表れれば、賭博におぼれ、農場の掟をやぶり、乱暴を働く広岡仁右衛門になります.一方、善と一体化して高い次元で発揮することができれば、デミアンのいう才智と勇気と節操をもった英雄が出現することになります.
 「デミアン」の最後で戦争に傷ついたジンクレエルは彼を見つめるデミアンの額にしるしがついていることに気がつきます.そして、デミアンは彼にこう告げます『ぼくはきみの心の中にいる』.このことはジンクレエルの自我が今までより高い次元の統合性を得たことを意味しています.

 有島武郎は、『自己を描出したに他ならない「カインの末裔」』と題する自作解説で、『人間の内部には、自分でも思いがけぬような欲求や思念が錯綜している.わたくしもまた同じで、生活の背後にはそれらが伏在しており、その各々に芸術的な表現を与えんとする欲望を感じて、筆をとるのだ.「カインの末裔」の主人公がいかに自分とかけはなれた存在にみえても、それもまた自己を書き現はしたものにほかならない.そこに人間の已むにやまれぬ生に対する執着の姿を見て貰ひたい』と書いています.このことは有島が彼自身の中の“カイン”をはっきりと意識していたことを示しています.

 有島は力感あふれる筆致で仁右衛門のギラギラした強烈なエネルギーを描ききりました.これは彼のなかの心的エネルギーがいかに大きいものであるかを如実に表しています.
 そして、そのエネルギーが昇華され、「生れ出づる悩み」(1918)、「迷路」(1918)、「或る女」(1919)や「惜みなく愛は奪ふ」(1920)など、彼の文学の頂点といもいうべき作品群に結実されていくのです.


有島武郎(1878-1923)

参考文献:「カインの末裔」の成立過程詩論(内田満)、術語集Ⅱ(中村雄二郎)
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 カインとアベル(創世記 4:1-16)
 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
 『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』
 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
 主はカインに言われた。
 『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』
 カインは答えた。
 『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』
 主は言われた。
 『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』
 カインは主に言った。
 『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』
 主はカインに言われた。
 『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』
 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

カインとアベル

デミアンとノヴァアリス2014年08月29日

  「デミアン」はユング心理学とともに当時のドイツ文学の知識もあるとさらにわかりやすくなります.
 たとえば、“運命と心情は、同一の概念の名である”という箴言です.
 この言葉はジンクレエルがベアトリイチェの肖像画として描き始めた画の下に書かれたものですが、一読しただけでは何のことを言っているのかよくわかりません.

  ジンクレエルの描いた肖像画は彼の内界を映し出しています.
 “ベアトリイチェ”を描こうとして絵筆を取ったはずの肖像画は『神像か神聖な仮面』のようになり、次第に『デミアンの顔』になり、最後に『ぼく自身なのだ』という感じがわいてきます.そして『それはボクの内面、ぼくの運命、またはぼくの魔神だった.』と考えるようになります.

  『その幾週かのあいだに、ぼくは、それまでに読んだどんなものよりも、深い感銘をうけたものを読みはじめた.後年になっても、ぼくはめったに、書物というものをこんなふうに味わったことは二度となかった.~あればニーチェぐらいのものだった.それはノヴァアリスの一巻で、手紙や箴言がはいっていた.その金言のひとつが、そのときふとぼくの頭に浮かんだ.ぼくはそれを、ペンで肖像画の下に書いた.~“運命と心情は、同一の概念の名である”それがいまぼくにのみこめたのである』とあります.
『青い花』(あおいはな)はノヴァアリスの未完の小説.詩人ハインリヒが夢の中で見た青い花に恋い焦がれ、その面影を求めて各地を遍歴し、その途上で様々な人に会って成長していく様を多くの詩を織り込みつつ描いている.
 ノヴァアリスは、“夜の賛歌”や“青い花”を書いた、18世紀後半、ドイツロマン主義の詩人です.
 ノヴァアリスの青い花に、『貴方の花園はこの世界です.この花の咲いている子供たちの母たちは廃墟です.花やかな生々とした創造されたものはその養分を過去の時代の廃墟から取っています。 然し, 子供たちが栄えることが出来るためには、母は死ななければなりませんでした.』という表現があります.
 子どもが母親から自立するには内的な母親像を消し去り、新たな自我を作り上げる必要があります.このことはデミアンに書かれている卵と鳥の関係、破壊と創造の概念と同じ意味合いと考えられます.
 人間の自我は安定した状態にとどまることなく、その安定性を崩してさえ、高次の統合性へと志向します.人間の内面心情の変化、自己を目指す自我の成長はその人の人生、運命に他なりません.“運命と心情とは同一概念の名である”ということはこのことを意味してるのだと考えられます.

 “運命と心情は、同一の概念の名である”の原文は "Schicksal und Gemüt sind Namen eines Begriffs"で、心情と訳された単語は“Gemüt”です.“Gemüt”を辞書で引くと“心情”という訳が一般的なようですが、”魂”や“心”という訳もあるようです.私には自我の心持である“心情”より意識、無意識の心持全体を代表する“魂”あるいは単純に“心”とした方がこの場合の訳としてはぴったりするような感じがします.

 ちなみに、ジンクレエルが味わって書物を読んだことのあるというもうひとり、ニーチェは「神は死んだ」という言葉で知られるようにキリスト教に対して否定的な態度をとったことで知られています.このことはユングが注目したキリスト教の異端であるグノーシス主義やアブラクサスと“反正統キリスト教”ということで共通します.
 ヘッセもユングもニーチェもキリスト教牧師の家に育ったので、キリスト教は打ち破らなければならない既存の規範として、彼らの前に大きく立ちはだかっていたことは想像にかたくありません.


参考文献:追憶と過去(中野久一)

デミアンとユング2014年08月28日


デミアンには新潮文庫版と岩波文庫版があります.
 
 

 ヘルマン・ヘッセの「デミアン」は主人公ジンクレエルの魂の遍歴が書かれた小説です.難解なところもありますが、ユング心理学の知識があると、より興味深く読むことができます.

 “なごやかな輝き、あきらかさ、清らかさの所属する”明るい世界だけに住んでいた10歳のジンクレエルが“美しくものすごい、あらあらしくて残酷な”暗い世界に足を突っ込んでしまうことから物語は始まります.悪童のフランツ・クロオマアに脅かされ、家族に秘密をもったジンクレエルは、彼の魂の導き手であるデミアンに助けられ自立への道を歩みだします.
 デミアンはその後もジンクレエルが危機に陥るたびに彼の前に現れ、彼の心の成長に一役も二役もかいます.

 成長して少年となったジンクレエルは、ダンテにちなんで名づけた美少女、ベアトリイチェに触発され、心の女性性(アニマ)を発達させます.大学生になると、オルガン奏者ピストリウスやデミアンの母親のエヴァ夫人との関わりの中で、さらなる心の深層と対していきます.

 ジンクレエルはキリスト教をはじめとした社会の規範にそって生きていこうとする気持ちと、「カインのしるし」や「アブラクサス」に代表される、既成のものを破壊するほどの新奇なものを求める気持ちとの間でジレンマに陥ります.そのジレンマの中に身をおき、苦悩に直面していくことで、ジンクレエルの個性が磨かれ自我が確立していきます.
 ユングはこの心の成長を「自己実現」あるいは「個性化の過程」とよんでいます.

 ユングのいう「自己実現」あるいは「個性化の過程」に必要なのが、“影”や“コンプレックス”に代表される無意識に存在する心的エネルギーです.“影”は社会的な一般通念や規範に反するという意味で“悪”というものに近接します.しかし“悪”であるからといって社会通念に従って、“影”を完全に抑圧するのではなく、また“影”を一方的に噴出させるのでもなく、それを自我に統合させることで、第三の道を開ことができます.

 ジンクレエルの本の間にはさまっていた紙片に書かれていた、『鳥は卵からむりに出ようとする.卵は世界だ.生まれようとする者は、ひとつの世界を破壊せねばならぬ.鳥は神のもとへ飛んでいく.その神は、名をアブラクサス』はデミアンの中でも心ひかれるフレーズです.このことばは、自我が発展していくためには、旧い自分を打ち壊し、新しい自分を創造する必要があることを示しています.
 また、“卵”や“鳥”そして“アブラクサス”はカール・ユングの描いたマンダラ(下図)と密接な関係があります.
 アブラクサスはユングの「死者とへの七つの語らい」の中に記されている存在です.アブラクサスは根源的存在であるプレロマの顕われで、神の上にも悪魔の上にも存在し、神的なものと悪魔的なものを融合します.
 善悪を超越した神、アブラクサスを目指すということは、ユングのいう自己実現、個性化への道を開くということに他なりません.

 「デミアン」はヘッセがユングの高弟ラングの精神分析を受けた後に書かれた作品なので、ユング心理学の影響を色濃く受けている作品です.したがってユング心理学を知って読めばデミアンの理解はより深まるということになります.
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                  ユングの描いたマンダラ

 
 
 
  上の図はユング自身が描いたマンダラです.
 中央上部にあるのは、羽の生えた卵の中に少年の姿が見え、エリカパイオスとかパネースとか名づけられています.パネースはオルペウス教の神で、クロノス(時)によって卵から生まれた神で、「最初に生まれたもの」とも呼ばれます.両性具有で光り輝き、すべてのものの創造者です.
 この少年の対極に存在するのは、一番下に描かれているアブラクサスです.天界に存在するパネースの対極として描かれ、自然の物質界の神として、そこから生命の木が生じてくるように描かれています.生命の木はvita(生命)と名づけられています.生命の木の横に存在しているのは、恐ろしげな怪獣と、コガネムシの幼虫です.これらは死と再生について知っているものだとユングはいっています.
(河合隼雄・無意識の構造)

参考文献:書物との対話(河合隼雄)、無意識の構造(河合隼雄)、コンプレックス(河合隼雄)、影の現象学(河合隼雄)